赤いスイートピー制作に関してのエピソード
作曲にユーミンを起用したのは作詞の松本隆さんの発案で、『ライバルに曲書いてみない?』とユーミンに直々に作曲依頼をした。女性ファンを増やしたいというプロデューサー・若松宗雄さんの意向に対し、ユーミンは作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌い当初は渋っていた。そこで、作曲者名にペンネームである「呉田軽穂」を使用しても良いのならという条件で引き受けたという。ユーミンは、「誰が作ったか知らなくても、曲調だけで聴き手の心をつかめたなら、これほど作家冥利に尽きる事はない。そして本当にその通りになったのでとても充実感のある仕事でした」と、後に語っている。
当時の聖子ちゃんは過度なスケジュールの影響から喉を酷使し、歌唱時に声が擦れてしまう事があった。そこで若松さんはユーミンに対して、喉に負担が掛からないようキーを抑えたスロー・バラードを作って欲しいと依頼した。ユーミンが完成させた曲は、元々はBメロやサビの「赤いスイートピー」のフレーズで音程が下がる曲だったが、プロデューサーから「春をイメージした歌なので、最後は音程を上げる形にして春らしくしてもらいたい」とリテイク依頼を出した。本人曰く「提供した曲をダメ出しされたのは後にも先にもその時だけなのですごく驚いた」という。当時は若松の熱意に折れ、仕方なく現在の形に修正したそうだが、「今になって考えると春の歌だし、あれで良かったんだと思います。そして、相手が誰であろうと妥協せずに向かい合うスタッフがいたからこそ、彼女は短期間であれだけの存在になれたのでしょう」とコメントした。聖子ちゃんはそれまでの声を張り上げ伸びのある歌い方を改めて、この曲から徐々に歌唱法を変えていったと云われている。
松本隆さんはユーミンが先に作ったメロディーを受け取った時、「単純に詞をつけていくとユーミンみたいな語感になってしまう」と感じて、「かなり抵抗して、松本隆さん風の言葉をわざと並べた」という。長く聖子ちゃんの曲を担当した松本隆さんは後年、この曲で聖子ちゃんと「同期した」と表現している。
冒頭の歌詞、”春色の電車”について、松本隆さんは「”春色”は子どもの頃に記憶しているオレンジと緑色の湘南電車で、それが海に続いているイメージ」であると明かし、更に「江ノ電の鎌倉高校前から鎌倉駅の商店街を抜けて海が急に見えてくる景色が大好きだった」「その線路の脇に赤いスイートピーが咲いていたらかわいいんじゃないかな、と想像して歌の舞台にした」と2021年8月1日放送の「関ジャム 完全燃SHOW」で回答した。
本曲発表当時、スイートピーの主流は白やクリーム色、ピンクなどが主流で、「赤いスイートピー」は存在しないと思われていた(実際、1800年頃に既に存在していた。本曲がヒットして以降、品種改良して作った鮮やかな色の赤いスイートピーが売られるようになった。松本隆さんは「心の岸辺に咲いたとあるから、これは全て夢なんだなと分かってもらえたら、別に何色でもいいんですけど」と語っている。
本来の楽譜では「はーんとーし」であったが、実際の歌では聖子ちゃんが自分の間合いで「はんとーし」と歌っている。若松さんが元の譜割で歌うようリテイクを出したが、若松さんは最終的に「はんとーし」を使うことにしたという。
聖子ちゃんの涙もわかりますね。
これだけの凄い人達に素晴らしい作品提供をして頂きましたし、
ユーミンもこの番組でコメントされてますが、共に時代を歩んで来た戦友。
舞台裏では我々が知りえない、苦労とかあったと思います。
感慨深くなりこの涙なのでしょうね。