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常盤台バプテスト教会 – 聴く礼拝メッセージ #14 イースター礼拝「人生、復活への希望」友納 靖史 牧師 2021年4月4日(ヨハネによる福音書21章1-14節)

聖書:ヨハネによる福音書21章1-14節(新約聖書 211ページ)
宣教:イースター礼拝「人生、復活への希望」友納 靖史 牧師

常盤台バプテスト教会は、東京都板橋区にあるキリスト教(プロテスタント)の教会です。東武東上線ときわ台駅北口徒歩3分。毎週日曜日の9時15分から主日礼拝をYouTubeでライブ配信しています。

「聴く礼拝メッセージ」は、約1時間のオンライン礼拝から牧師による宣教(メッセージ)のみを抜粋し、音声をより聴きやすく調整した高音質版です。

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常盤台バプテスト教会

▼宣教概要
ヨハネが福音書を記した当初は、20章までの文章でした。しかしその後、これだけはどうしても書き加えておきたいと思い立ち、加筆されたとされるのが21章です。ヨハネが何を伝えようとしたのか、その真意が次の節に込められています。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である(21章14節)」と。

弟子たちの家に主イエスが現れたのが一度目(20章19-23節)。その場にいなくて、主の復活を疑ったトマスのため、その姿を現されたのが二度目(20章24-31節)。そして、復活された主にお会いしていながら、三度イエスを否認したことへの罪責感や自信喪失感から、イエスの弟子を辞して漁師に戻ろうとしたペトロに主が三度も現れてくださったと証言します。十字架につけられ、全ての者の罪を贖い、赦しを与えられた主は、復活されてもなお、弟子達を愛し、寄り添い続けられる真の救い主であると、ヨハネは語り伝えたかったのです。

その日ペトロは、他の弟子達に別れを告げ、一人静かに漁師に戻り、残りの人生を歩もうと心に決めていました。しかしトマスは、自らも主イエスの復活を疑い、十字架に架けられたその姿を見るまでは決して信じないと言い放った経験からでしょう。彼は、深く沈んだペトロの同伴者となり、他の弟子たちと共に寄り添う姿が描かれます。

熟練した漁師だったペトロでしたが、その夜、一匹も魚が捕れず、空しさを覚えて夜明けを迎えました。すると、湖の岸辺から声が響いたのです。二言目にその人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。その時まで誰もその方が主イエスだと気づいていませんでしたが、彼らは素直にその声に聞き従い、網を水の中に放ちました。すると驚くことに、その網には船上に引き上げられない程おびただしい魚が捕れたのです。

その時、ペトロは悟り、叫びました。「主だ!」と。こうしてペトロがまず水に飛び込み主の許へ泳いでかけつけ、続いて他の弟子達は大漁の網を水に浸したまま、陸地へと戻りました。そこには主イエスが炭火を熾して待っておられ、彼らの身体を焚火で温め、空腹であった弟子たちに食事を与えてくださいました。更にその後、ペトロに対する心と魂のケアが施され、ペトロは主イエスの弟子として再び献身を表明し、弟子の群れに連れ戻されたのです。「九十九匹と迷い出た一匹の羊」の譬え話のように。

近年、「霊的同伴者」という用語がプロテスタント教会内でも使われるようになりました。主なる神がいつも共におられることは変わらない真理です。しかし長い人生の旅路において、感謝と喜びを忘れず、霊的信仰の成熟を続けるため、共に祈り、御言葉を分かち合って霊的交わりを担う人が必要です。その交わりは、人間的な弱さと痛みを安心してさらけ出せる関係性があります。

ペトロにとっては、トマスたちであり、何よりも主イエスがまず模範となってくださいました。教会において大勢の交わりに集えない今こそ、ひとり一人に良き人生の友、そして信仰生活の「霊的同伴者」が皆さんお一人お一人に与えられますように祈ります。

ヨハネは加筆してまでも、ペトロのみならず私たち全てに、いかなる状況においても同伴者となって関り続けてくださる復活の主イエスの存在を伝えようとしました。地上の人生だけでなく、永遠のいのちに至るために誰もが通らねばならない道「死」を迎えるその時は、主イエス只お一人だけが真の「同伴者」です(ヨハネによる福音書14章1-3節)。その驚くべき神の愛を信じ、受け入れる時、私たちの人生は、主にある復活の希望という光に照らされ、恐れず歩み続ける者へとされるのです。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23編4節)。

#キリスト教 #教会 #礼拝