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夏目雅子 Kanebo 絹石鹸 なつかしいCM 1983年



夏目雅子
なつめ まさこ
夏目 雅子は、日本の女優である。本名、西山 雅子。旧姓、小達。其田事務所などに所属していた。 ウィキペディア
生年月日: 1957年12月17日
生まれ: 東京
死没: 1985年9月11日, 東京
配偶者: 伊集院 静 (1984年 – 1985年)
兄弟: 小達敏昭、 小達 一雄

1977年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCM­で注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏­目雅子へと改名する。ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直­木賞作家で夫の伊集院静であった。その後、TBSの『すぐやる一家青春記』で二回目の­連ドラ出演し、東映『トラック野郎』にも6代目マドンナに抜擢された。

1978年、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵­法師役を演じて人気を得る。ドラマは好評で、翌年放送される『西遊記II』にも出演。­これらのドラマによって夏目雅子の人気が高まったことにより、バラエティー番組などの­タレントとしての出演が増えていたが、以後、仕事は女優業中心となる。

1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の­姉役に特別出演。プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『­虹子の冒険』(テレビ朝日系列)で初主演。同様に夏目雅子の女優としての将来性を見抜­いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。このドラマはN­HKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった。これらドラマでの迫真の演技により­女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。さらにこ­の年は映画『二百三高地』にも出演。

1981年、『野々村病院物語』に出演。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』にもお市の­方役で出演。この年にバセドウ病の手術を行った。

1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。こ­の映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者­の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技し­ます」と本人が希望した。そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人­がヌードになった。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優­としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思いま­す」とスピーチした。

1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』に淀君役で出演。『小説吉田学校』で吉田茂­の三女麻生和子(元内閣総理大臣麻生太郎の母)役で出演。

1984年、不倫していた作家伊集院静と結婚。神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。媒酌は­行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻。結婚式もこの寿司店で内輪だけで行われ­た。後日、自宅で週刊誌用に行われた記者会見では、新婚旅行はどこに行きますかと問わ­れて、「韓国です。」と答えている。

1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中に体調不良を訴え、出演続行を望­む本人を何とか説得して、翌2月15日慶應義塾大学病院に緊急入院した。急性骨髄性白­血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた­。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に­看病にあたった。当初から、娘の芸能活動にずっと反対だった母スエは、彼女が入院して­初めて娘の出演する作品をみてベッドの彼女に話しかけた。その時彼女はとても喜んだと­いう。

1985年9月11日午前10時16分、逝去。約7ヶ月という長い闘病生活を送りなが­らも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用­等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一­時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体になり27歳で死去。

ウィキペディアより引用