小林 優香(こばやし ゆうか、1994年1月18日 – )は、佐賀県鳥栖市出身の女子競輪選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第106期生。登録地は福岡県。ホームバンクは久留米競輪場。
母親はバレーボールの元実業団選手[1]で、この影響を受けて自身も幼少の頃からバレーボールに取り組み、熊本市立必由館高等学校時代には2010年に行われた全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会(インターハイ)に出場した経験を持つ。
しかし、垂直跳びの記録が60cmを越す[2]にもかかわらず、身長が164cmとバレーボール選手としては小柄なためポジションは跳躍力をさほど必要としないセッターやリベロに限られていた。このことが当人には不満で、中学を卒業した時点でバレーボールには限界を感じていたが、高校そして短大と、いずれもバレーボール部での活動を前提にした推薦入学が決まっていたことから、その後も活動を続けていた。
2012年、たまたまテレビで見たというロンドンオリンピック・男子チームスプリントに魅了され、ガールズケイリンを志望することを決意。佐賀女子短期大学在学中に競輪学校を受験し、同年12月20日、競輪学校第106回適性試験に合格[
競輪学校では、200mフライングダッシュ、400mフライングダッシュ、1000mタイムトライアル、2000mタイムトライアルの4種目(女子の場合)について随時計測することになっているが、入学直後の2013年5月に行われた試走記録会で競輪学校の最高基準(A基準)タイムを全て上回り、女子生徒として初のゴールデンキャップを獲得した[5]。さらに同年7月に行われた第一回記録会、同年9月に行われた第二回記録会でも全て上回り、男女通じて史上初となる3回連続のゴールデンキャップ獲得を果たした。
これを受け、同期生の石井貴子とともに通常の競輪競走における訓練とは別に、オリンピック種目であるチームスプリントを行うよう勧められ、同年10月に立川競輪場で行われた第68回国民体育大会のエキシビションレースに出場。400m周長の日本記録を更新する56秒333をマークした。
その後、石井とともに日本ナショナルチーム入りが決まり、2014年2月下旬に行われたトラックレース世界選手権出場を果たした。
2014年3月に競輪学校を卒業。卒業記念レース決勝戦では石井に優勝をさらわれ3位だったが、在校競走成績は58戦50勝の成績を挙げ第1位となった
2014年、5月16日の岸和田競輪場でデビュー戦を迎え、2着の増茂るるこに6車身の差をつけて勝利。その後も連勝街道を続け、出走した岸和田、京王閣、松山、名古屋の各競輪場では全て完全優勝。同年7月18日に行われた青森での一戦に勝利し、石井寛子と並んでいたデビュー以来の無敗記録を更新する13連勝を樹立。さらに19日、そして決勝戦が行われた20日も勝利し、加瀬加奈子と並ぶ15連勝をマークした。
8月8日、9日に行われた第1回ガールズケイリンフェスティバル(松戸競輪場)でも連勝。加瀬と並んでいた連勝記録を更新し、初代優勝者となった[。
その後も連勝を続けたが、9月1日、西武園決勝で梶田舞に敗れデビューからの連勝記録は22でストップした[。
9月14日、ガールズケイリンコレクション前橋ステージで優勝。この結果、同年12月28日に岸和田競輪場で行われるガールズグランプリ2014の出場をデビューから僅か半年という早さで確定させた。その後も快進撃を続け、ガールズグランプリ2014までに再び22連勝を記録。しかし、年末の大一番であるガールズグランプリ2014では本命に推されたものの、捲り不発で梶田、加瀬に続く3着に沈み46戦目で初めて連対を逃してしまった。
なお、この年2回記録した22連勝は、2017年に梶田舞に抜かれるまでガールズケイリン記録であった。梶田舞は2017年3月7日に24連勝を記録するが、同じ開催で小林も斡旋されており、翌8日の決勝では、逆に自身が梶田の連勝記録を止めた。
2015年も年明けから4場所連続完全優勝をしていたが、3月の四日市競輪場の予選初日に奈良岡彩子に敗れ、デビュー以来続けていた予選連勝記録が37勝(19場所)で途切れた。5月には別府競輪場で開催された全日本プロ選手権自転車競技大会中に行われたエキシビションレースで競輪学校時代も含めた自身初の落車転倒を経験する。3月・6月のガールズケイリンコレクション、8月のガールズケイリンフェスティバルと優勝、9月のガールズケイリンコレクションは石井貴子に敗れたが、年末のガールズグランプリで優勝。同年の年間獲得賞金を29,767,000円とし、自身初の賞金女王となった。なお、この金額は男子も含めた全競輪選手2380人中35位に位置する。
2016年は、3月のガールズケイリンコレクション名古屋ステージで他の選手を落車させたため過失走行により失格と判定され、また小林自身も落車し意識不明のまま病院に搬送されたが大事には至らなかった。この負傷によりその後の3月開催のレースをすべて欠場することになり、デビューした2014年5月以降続いていた月別優勝が22ヶ月連続で終了した。同年4月、UCI承認トラックチーム「Dream Seeker」に、発足メンバーとして参加(代表は新田祐大)[18]。5月の同静岡ステージでは発走直後に左肩を脱臼するアクシデントに見舞われたものの2角捲りを決めて優勝した。その後は海外遠征先の台湾でも落車したため骨の移植手術を受けたことから、リハビリに専念するためレースは長期欠場したが、同年11月の久留米競輪場でのFI競走から復帰し、3日間とも1着で優勝した。2016年の獲得賞金額は7,528,600円であった。
2017年は減量に励み、体重は20キロ落として65キロとしたほか、後輩の太田りゆ(112期)とともに日本自転車競技連盟からトラックレース短距離女子エリート強化指定選手として指定されたため主にナショナルチームとしての活動(競技)に重きを置いたこともあり、伊豆の修善寺に住居を構えて活動拠点として練習を続けた。また、6月のアメリカでのケイリンレースで優勝するなど海外遠征も増やしたことからガールズケイリンの出走回数は年間で僅か40走に留まったが、1着36回(うち優勝10回、そのうちの1回はガールズケイリンフェスティバル)、2着4回と全てのレースで連対し、年間獲得賞金は10,076,000円であった。
デビュー以来2017年末までで193走し、1着176回(勝率91.2%)、2着8回、3着4回、着外1回、棄権2回、失格3回。優勝は56回という成績を残している。
2018年も引き続きナショナルチームとしての活動に重きを置いたことからガールズケイリンの出走回数は抑え、年初から主に海外のレースに参戦。そのため同年のガールズケイリン初出走は前走から4ヶ月空いた3月のガールズケイリンコレクシュン松山ステージとなった[21]が、最後の直線で捲り追い込みを決めて優勝、ガールズケイリンコレクション最多となる5回目の優勝を飾った。その後もガールズケイリンは月1回の斡旋に抑えられた中で、7月のガールズケイリンフェスティバル(松戸)決勝で落車し負傷する(レースは失格)。それ以降は治療と競技に専念したため2018年のガールズケイリンはガールズケイリンフェスティバルまでの僅か8走(1着5回、2着1回、3着1回、失格1回)に留まったが、競技では12月2日(現地時間)に行われたワールドカップ2018-2019の3戦目・ベルリン大会女子ケイリンにおいて3着となり、短距離種目としては日本人女子で初めて銅メダルを獲得し表彰台に上った。
2019年も前年同様、初戦は3月のガールズケイリンコレクション大垣ステージとなったが、捲った妹弟子の児玉碧衣を更に捲って1着となり、ガールズケイリンコレクション最多優勝記録を更新する6回目の優勝を果たした。4月28日、伊東温泉競輪場で開催された『国際自転車トラック競技支援競輪』(GIII)の最終日第9レース『ガールズケイリンインターナショナル2019』にて、ロリーヌ・ファンリーセン、マチルド・グロといった強豪選手を抑え優勝。ただ、競技優先のためガールズケイリンの出走機会が少なく獲得賞金額も少なかったことから年末のガールズグランプリに出場するためには競輪祭前半3日間で行われるグランプリトライアルでの優勝が必須であった中で(かつ、その直後にワールドカップが控えるというタイトなスケジュールの中でもあった)、トパーズ(A組)で優勝を果たしガールズグランプリ2019の出場権を獲得。ガールズグランプリには優勝した2015年以来4年ぶりに出場するも、同郷の妹弟子である児玉碧衣に捲られ3着に終わった。同年は13走のみであったが1着11回3着2回と全て車券に絡み、600万円ほどで終えた(グランプリトライアルが終了した11月21日時点での獲得賞金額は546万7000円)。
2021年5月16日、UCIトラック・ネーションズカップ香港大会女子ケイリンで李慧詩を下し優勝、金メダルを獲得。日本人女子として、国際自転車競技連合(UCI)が主催する国際大会のケイリンでは史上初の金メダル獲得であった。
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