浅田真央選手の引退とともに女子フィギュアの進化の歴史は止まったかに見えた・・。
審判員は、客観的な得点を提示できる技術力に対してではなく、主観的な得点でしかない表現力を偏重し出した。難易度の高い技に挑もうという選手は影を潜め、オーバーな表現力に頼る選手に対して安易に高得点が与えられた。ロシアの新星たちが次々に記録を塗り替えたが、彼女たちの表現力一辺倒の演技に与えられる高すぎる得点に対して世界中からオーバースコアではないかと疑念の声が上がり、ISUは採点のルールを改正せざるを得なくなった。しかしその改正は、各種ジャンプの基礎点を下げ、コレオシークエンス=個性的表現力の加点を水増しするなど、ISUに向けられた採点疑念を自己正当化する真逆ともいえる改正だ。
フィギュアスケートは演劇ではない。
表現力だけで良いなら、フィギュアスケートはスポーツである必要はない。
スポーツである以上、審判員の個人的な主観的採点方法が優先されるのではなく、誰が見てもありうべき得点が提示される客観的採点方法が主軸にならなければならいはずだ。体操にしろ競泳にしろスキージャンプにしろ他のスポーツと呼ばれる競技は必ずそうなっている・・。
誰が見てもありうべき得点が提示される客観的要素とは「技術力」である。他の競技では「高さ」や「距離」や「速さ」であるものが、フィギュアスケートでは「技」である。
高い技術力、難度の高い技は、それだけで美しい。他の選手にはできない技を美しい姿勢で決めた時にこそ高い得点が配点されなければならないのだ。芸術点も出来栄え点も、それを根底で支えているのは実は高い技術力なのだ。
・・技術力が軽んじられ表現力が偏重された時代は終わろうとしている。
高い技術力を身に付けた若い選手が、日本と(それは勿論、紀平梨花選手の事だ)、そしてロシアにも(それは紀平よりも2歳年下で既に4回転を跳ぶAlexandra Trusovaらの事だ)台頭してきている。
真の実力を持つ若い才能達が、その「技の力」で、ISUの偏った採点方式を糺す日はそれほど遠い日ではない。
女子フィギュアの歴史の時計は再び秒針を刻み始めた、という事だ。
伊藤みどり選手、中野友加里選手、浅田真央選手、そして紀平梨花選手へと引き継がれた美しきトリプルアクセルのDNA。
そしてこのDNAは、紀平によってさらに進化させられていくだろう。
進化の歴史が再び動き出したのだ。