「火の玉ストレート」を武器に虎党を熱狂させた藤川は、高知商から98年ドラフト1位で阪神に入団。すると、注目を集めたのは中学校の同級生だった広末涼子(40)だった。  「中学2年の時にCMオーディションでグランプリを受賞したのをきっかけに芸能界デビューすると、96年にポケベルのCMでブレイク。同年に出した初写真集『H』『R』(集英社)は2冊合わせて約48万部のヒットを記録するなど、スター街道を歩んでいました」(芸能ライター)   藤川の入団が決まり、コメントを求められた広末は、  〈自分の目標に向かい努力を続け、夢のスタート地点に立っている藤川くんをとっても尊敬しています〉   と、マスコミ各社に直筆メッセージを送った。が、藤川の反応は意外なものだった。スポーツ紙記者によれば、  「中学時代を振り返り『みんなは広末に写真を撮らせてもらってたけど、僕は嫌でした』など、そっけなかったんです。というのも、一度も同じクラスになったことはなく、友達でもなかったみたいで‥‥。広末も歌番組に出演時、『高校の時にめっちゃ芸能人ぶってる』と言われたことを暴露し、不仲説が流れました」   それから月日がたち、2人の立場に変化が起きる。広末は早大を退学。結婚、離婚を経験し、旬を過ぎて勢いがなくなると、逆に藤川は救援トリオ「JFK」で05年に阪神の優勝に貢献。09年には、WBCの第2ラウンド進出を決めると、広末は侍JAPANの守護神を任されていた藤川に向けて、  「〈同郷の藤川さんはじめ、みなさん米国へ行っても頑張ってください〉とエールを送ったのですが、呼び方は距離を感じる『さん付け』だし、どこか他人行儀で気のない印象がありました」(前出・スポーツ紙記者)   そんな広末をよそに、藤川はメジャーリーグへと雄飛するも振るわずに帰国。そのあたりから突如、「急接近」の機会が訪れたのだ。  「帰国後の15年に独立リーグの高知ファイティングドッグスに入団し、地元はヒーローの凱旋に大盛り上がり。高知県のCMに広末が出演していたので、共演プランも持ち上がったんです。しかし、実現することなく、翌年に藤川は阪神に復帰しました」(前出・スポーツ紙記者)   引退発表した際、広末のコメントがスポーツ紙の紙面に載ることはなかった。この先、すれ違ったままの同級生が再会することはあるか‥‥。